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わたしは甚内(じんない)と云うものです。苗字(みょうじ)は――さあ、世間ではずっと前から、阿媽港甚内(あまかわじんない)と云っているようです。阿媽港甚内、―― あなたもこの名は知っていますか? いや、驚くには及びません。わたしはあなたの知っている通り、評判の高い盗人(ぬすびと)です。しかし今夜参ったのは、盗みにはいったのではありません。どうかそれだけは安心して下さい。  あなたは日本(にほん)にいる伴天連(ばてれん)の中でも、道徳の高い人だと聞いています。して見れば盗人と名のついたものと、しばらくでも一しょにいると云う事は、愉快ではないかも知れません。が、わたしも思いのほか、盗みばかりしてもいないのです。いつぞや聚楽(じゅらく)の御殿(ごてん)へ召された呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の手代(てだい)の一人も、確か甚内と名乗っていました。また利休居士(りきゅうこじ)の珍重(ちんちょう)していた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師(れんがし)の本名(ほんみょう)は、甚内(じんない)とか云ったと聞いています。そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記(あまかわにっき)と云う本を書いた、大村(おおむら)あたりの通辞(つうじ)の名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか? そのほか三条河原(さんじょうがわら)の喧嘩に、甲比丹(カピタン)「まるどなど」を救った虚無僧(こむそう)、堺(さかい)の妙国寺(みょうこくじ)門前に、南蛮(なんばん)の薬を売っていた商人、……そう云うものも名前を明かせば、何がし甚内だったのに違いありません。いや、それよりも大事なのは、去年この「さん・ふらんしすこ」の御寺(みてら)へ、おん母「まりや」の爪を収めた、黄金(おうごん)の舎利塔(しゃりとう)を献じているのも、やはり甚内と云う信徒だった筈です。